絶対に後世に残しておきたい祖父が残した沖縄戦(第二次世界大戦)のリアルすぎる体験談

僕の祖父は戦争経験者で肩には大きな傷がありました。祖父曰く、投下された爆弾の破片が肩を貫通したそうで、確かにえぐられたような傷が残っていました。

そんな祖父は2017年10月にこの世を去りました。目まぐるしく忙しいお葬式も終わり、やっと悲しむ時間が来た時に遺品整理をしていると沖縄戦の体験談が書かれた紙を見つけました。

「戦争は怖い」

そう言っていた祖父ですが、それ以上もそれ以下も戦争について耳にすることはありませんでした。僕がこの戦争体験記を読んで、絶対に僕の心の中にしまっておくだけのものではなく、後世に残したい物だと思い、ここに記そうと決めました。

1945年に第二次世界大戦が終わって、2021年で76年になります。6年余りの続いたその残酷な日々を誰も忘れないように、心して祖父の戦争体験記を読んでください。

第二次世界大戦(沖縄戦)体験記

私は昭和20年2月、浦添尋常小学校へ父親とともに召集された。翌日から嘉数小学校へ石部隊の独立歩兵第13大隊に配属された。他村からも防衛隊員が私たちの小隊に動員され、約15名が一つの班となって、斎藤軍曹他6名の兵隊と共に行動し、作業に従事する事になった。

米軍が北谷方面に上陸した時点から、軍曹達兵隊は嘉数高台の陣地へ、私達防衛隊は嘉数の自然壕へと別れて行動した。戦況はいよいよ激しさを増し、負傷者も次第に多くなっていった。私達舞台は担力で負傷兵を嘉数から浦添前田の野戦病院患者運びに従事、一夜のうちに3,4回も往復、その間艦砲射撃は一時も止むことなく、夜になると迫撃砲と砲撃は激しくなるばかり、次々と防衛隊員も兵隊と共に負傷者・死者が出ていった。浦添前田で、私と同じ班の防衛隊員も射られていった。

私が射られたのも前田の野戦病院近くの近くの丘の壕の近くだった。敵は、前田にも陣地があることは知っているのか、夜になっても迫撃砲は激しさが増すばかり、3発目の砲弾の破片が私の肩に当たったのである。射られた瞬間、バットで思い切り殴られた感じで、右手がだらりとぶら下がったなと思った時、傷口から背中へ温かい血が流れるのを感じ、射られたなと思いながら壕の入り口めがけて、ぶらぶら歩きながら避難したことは覚えていますが、気がつくと見知らぬ一等兵が私の肩の傷口を包帯をして、みどり色の三角ずきんで首から右腕をかけてくれた。

しばらくして、誰か私の枕元で、大声を張り上げて、わめき散らしていた。これこそ叫喚地獄と言うのでしょう。さきの隊員も両足のふくらはぎを破片でもぎ取られ、声にならない声で泣き喚き散らして射たが、死ぬ間際になれば断末魔の叫び声をあげるのだと私は思った。

前田部落の戦()もいよいよ陥落するときがきたのだ。歩ける負傷兵は独行患者として首里へ移動せよとの命令により、私は見知らぬ兵隊3名と共に首里の野戦病院へ移動。重症で歩けない患者達は壕と共に爆破され、生き地獄そのものであると忘れ去れる運命であった。

私達は首里の野戦病院に到着したが、ここは重症患者が入り口までベッドが並べられて身動きができない有り様。私達は一夜明かして南風原の野戦病院へとさらに退却。しかしここも負傷した軍人で満杯である。

私達はさらに南部武富を目指し後退、歩きながら途中キャベツ畑に入ってキャベツをもぎ取り歩きながらかじった。数時間後に武富の野戦病院に着いた。中は大きな自然壕でしたが、各方面からの負傷者がきていてここも満杯である。しかし、なんとか入り込んで、2日間の休息は取ったが、首里方面の戦況が悪化を増して、私達はさらに南部喜屋武山城へと、歩ける患者は一緒に50〜60名後退していった。

数時間後、喜屋武山城に着いたが、もうここから退がるところはない。ここが沖縄の最南端だ。

ここが、私たちの死に場所と決めていた。その後2日間はなんとか過ごしたが3日目の夜は摩文仁にいる兵隊へ食料を運びに駆り出され、食料を背に7,8名の兵隊と共に喜屋武岬を通っていくと、そこはもう地獄そのもの、中南部から避難してきた民間人と逃げ惑う日本兵、ほとんど負傷した兵隊と負傷した民間人、そこら一面死体もごろごろしているが、人々は見慣れていて気にもとめない。ただ、逃げ場や隠れ場所を探して右往左往してるだけ。どうすれば最後まで生きられるか。ただそれだけしか頭にはない。しかし、ほとんどの人々は覚悟を決めていた。皆無言、物言う人は一人もいない。ただ負傷した兵隊達が彼らの小隊長に、「もう動けないから殺してください」と願い出る者が続出し、小隊長と呼ばれた兵隊は手榴弾を発火して胸に抱けと命じると、待ってましたとばかり、次々と自爆していった。まさに地獄絵さながらである。ここでも重傷者は声を張り上げて喚き散らしていた。それこそ阿鼻叫喚地獄であった。

私達はここには居られないので、今来た道を引き返して山城の壕に帰った。喜屋武岬と摩文仁の間は、艦砲と迫撃砲、空からはトンボが機銃掃射である。夜は照明弾で辺りを照らし、海からは掃海艇で陸地めがけて。機銃掃射である本当に悲惨な有り様。後数時間で全ては堕ち終わるであろう。

その夜は12時に夜陰に乗じて一斉に切り込みに出ていった。幸か不幸か私はいつの間にか寝入って居た。切り込み隊が出て行くのも気づかなかったが、私が気づいた時には、壕の入り口が明るくなって居たので夜が明けているのかわかったが、物音一つない。誰かいるかもしれないと思い声を出して呼んだが返事がない。私は一人でいるわけにもいかず、壕の外へ出ようと思い、入口の方へ行くと、入口は兵隊の死骸が折り重なって倒れている。私は仕方なく折り重なった死体の上を一歩一歩、踏みしめながら外へ出た。約150m位置に井戸が有り、そこに入って水を飲んで、飲んで戻ると、外の方でボウボウと音がするので井戸から頭を出して覗くと私がいま出て来た壕の入り口から中の方にかけて、米兵3名が雑談しながら、火炎放射器で焼き払っているところだった。私は休止に一生を得たのです。もし壕から出るのをためらって居たら、私もしたいと共に焼き払われていたでしょう。

そのあたりは日本人1人も見えない。ただ米兵達が三三、五五としてうろついている。そのうち私は米兵に見つかり、自動小銃で射撃されたが、運よく一発も当たらなかった。このままではいずれ彼らに射られる。どうせこの身は終わりと覚悟を決めて、トラックの修理をしている4,5名の米兵の前へ手をあげて出ていった。そこで私は捕虜となる。午後になって屋嘉収容所へ連れられた。

もう戦争は嫌です。戦争ほど悲惨なものはない。絶対に戦争を起こしてはならない。そのためにも子供達に戦争の悲惨さを語り伝えていきたい。

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